随書雑感

随書雑感

のんびりが好きなぴっぷのひとりごと。社会保険関係や労働関係のニュースを取り上げつつ,基本的には日常雑記です。




日常雑記と自分に残った作品の記録。小説、映画、CM、音楽、ゲームそして日々の雑感を。
まじめにマイペースに。時代おくれで綴っております。



ツイッターしてます ←つぶやいてます。
←ぴっぷへのメール



<アクセス数の多い記事>


2005年 8月24日 書:気は長く。心は丸く。腹は立てずに。人は大きく。己は小さく。
2010年11月14日【ピグ活動記】ペプシサンタ・おフランス!広場


2010年11月30日【ピグ活動記】ペプシサンタと会う

▼ピグ活動記はこちらから

$随書雑感-バナー
▼ピグ映像作品集
$随書雑感-バナー


Amebaでブログを始めよう!

ことし平成29年元旦の初詣で,神武天皇陵,綏靖天皇陵と

初代,2代の天皇陵へ行った。橿原神宮を中心に畝傍山を取り囲む形で,

初代~4代天皇陵は存している。2代~9代開化天皇までは,俗に「欠史八代」と呼ばれる

こともあり,事績・人物等については記されることも少なく,

いわゆる実在していたかという疑問も指摘されている。

 

しかし,おそらくは何らかのモデルとなった御方あるいは物語があり,

存在を肯定することも難しいだろうけど,完全に否定するのもまた難しいだろう。

ちなみに,「神武天皇」というような「~~天皇」という呼び方(漢風諡号)が現代まで生きているのは,

もっと後世,一部の例外を除いて44代元正天皇までは一括撰進されたとのことである。

つまりは,後からつけれらたということ。

 

それでも連綿と現代までつながる歴史の雄大さに触れ,

そしてその歴史を繋いできた存在が眠る御陵へ行くことで,

肌身に実感がわく。考古学的にも,歴史学的にもややこしい議論はあれども,

単純なドキドキ・ワクワクで御陵を巡っていたりする。

 

このあたりの御陵は,いわゆる古墳,もう少し代を降るといよいよ有名な「前方後円墳」という

形の御陵になってくるが,もっと降ると仏教式になっていたり,いよいよ「どうやって参拝するのが

よいのか?」になってくると思うが,一応,鳥居がある所は,二礼二拍手一礼,仏教式になったら

合掌でよいのかなぁと思ったり。

 

綏靖天皇陵を詣でた後,歴代天皇陵について調べていたら,

「御陵印」の存在も知ることになる。いわゆる,御朱印のようにこちらも奉拝の

記念というか,私の興味関心が増していく材料となってしまった。。。

 

【安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵】

読み方は「あんねいてんのううねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ」。

 

神武天皇陵域内,遥拝所に行くまでに山道のような横道がある。

畝傍山を一周するような形で,初代,二代,三代,四代と御陵が存している。

 

3月19日と5月4日の二回訪問したことになる。

 

道路脇に案内がありすぐ横に,安寧天皇陵は存している。

 

 

初代東征,二代兄弟間の争いとあり,三代目で「安寧」の諡号というのは,

社会が落ち着いていた証だろうか。

 

 

こちらの御陵も長いこと所在不明とされ,

文久の修陵により,現在の箇所が安寧天皇陵として治定されたとのこと。

幕末の勤王思想,尊皇攘夷なんて絡みから,御陵を巡る動きも活発になってきているらしい。

読書を進めると蒲生君平とか興味深い人物も出てくる。

御陵巡りをきっかけに,知識欲がわいてくる。

 

 

こうしてきちっと整備され,草もきれいに刈り取られて,

私の知らなかった日本の姿がまたひとつ見えてくる。

 

【懿徳天皇畝傍山南纖沙溪上陵】

読み方は「うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ」。

御陵の遥拝へと入る道は,正面と横の2本あるが。。。

 

 

駐車場に挟まれている方が正面となっている。

簡単な木柵がひとつ。

 

 

安寧天皇陵からすぐ到着した。陵の形は「山形」とのこと。

 

 

2本の松が構えていて,威厳に溢れている感じがした。

安寧天皇陵とはまた異なる雰囲気。御陵と一つに言っても,それぞれの個性があるような。

 

懿徳天皇の「懿」の字の意味を調べてみると「充実して立派,美徳」という意味があり,

「懿徳」という諡号はとにかく褒め称える意味となっている。

 

二代綏靖天皇の「綏靖」は,「安らかな」意味あいが強く,「安寧」と似ている。

 

「綏靖」「安寧」「懿徳」と,なかなか個性的な諡号が4代まで続き,

次代からは8代まで,孝昭,孝安,孝霊,孝元,とすべて「孝」の文字が続くことになる。

 

【御陵印】

 

御陵巡りの楽しみである,御陵印。

全国に5ヶ所ある宮内庁書陵部の陵墓監区事務所に,それぞれの監区内にある

御陵の印(神代3代も)が集約されている。

 

事務所を訪れ「御陵印いただいてもよろしいでしょうか?」と声をかけ,

大きな木箱の中に,大きな御陵印がずら~とあるのは壮観である。

朱肉も大きいのがあって,なかなか緊張しながら押していく。

 

一般的な神社仏閣と異なりセルフサービスとなっている。

だから言ってしまえば,5つ回ればすべての御陵印がいただける。

でもそれだとあまり面白くないので,奉拝した後,その印を押していくことにしている。

 

 

御陵印だけではさびしいので,下手くそな筆文字で一応,それなりに書いている。

 

畝傍山を周り4代回れたので,4つ。

ちなみに御朱印帳は橿原神宮で購入した。

 

私が死んだら,棺桶に入れてもらうことにする。

 

いじょ。

ふとしたきっかけではじまった歴代天皇陵巡り。

それはそのまま日本の歴史を歩んでいるようで,

なかなか面白く,また,今後の趣味として続けていけそうでもある。

 

 

平成29年5月6日現在で,第八代孝元天皇劒池嶋上陵まで奉拝した。

備忘録がてらに,各御陵について綴っていこうと思う。

 

【はじめ】

テレビで橿原市を紹介していて,普段はあまり興味関心がなく,

また,ちょっとした身体の病(あとでわかった)が影響していたためか,

あまり休日に外出を積極的に出たがらなかった私であった。

 

その時も何気なく妻とテレビを見ていて,どちらが言っただろうかも

今となっては思い出せないけど,何故か「行ってみよう」ということになった。

 

ちょうど,我ら夫妻はIngressという,位置情報を柱にしたゲームをしていたこともあり,

その情報交換のハングアウトで,「橿原神宮どうでしょう?」みたいなコメントがあり,

そこに行ってみようということになった。

 

周辺をGoogle マップで調べていると,橿原神宮横に「神武天皇陵」の名前があり,

ついでにそこにも行ってみようとなったのが,御陵巡りのきっかけとなった。

 

橿原神宮に詣でたのが良かったのか,神武天皇陵に詣でたのが良かったのか,

あるいはその両方か,お参りに行って,その後の健康診断の結果で,

「えええ~・・・」となる病が発覚し,教育入院として一週間ばかり,生まれて初めて

入院というものを経験して,病気の知識や今後について勉強し,今では体重も落ち,

数値もすべて正常に戻ったり。まったくの偶然だろうが,しかし,「あそこに行ったから,

良い方向に戻れたのかも」という思いが強くなった。

 

今まで観光気分で,神社仏閣も少しばかり行っていたけど,

何となくこうしたことが重なり,自分にとって「ご利益」というものをはじめて

実感できたことでもあり,また,歴史も好きなので,結婚して大阪という地に在り,

色々と見る,行くべき場所があるのだと,気がついた。

それまでは,まったく外に興味もなく出たがらなかったけれど,

ようやく色々と外への興味関心がわいてきた。

 

せっかく巡るので,少しばかり知識をと,

長年続けてきた読書の習慣もいつしか途絶えてしまったけれど,

興味が起きてきたことで,3冊ばかりかじってみた。

 

 

 

検証 天皇陵 検証 天皇陵
 
Amazon

 

 

中でも,外池昇氏の『検証 天皇陵』は,御陵巡りにあたって,

江戸時代の修陵やそれ以前の資料の図等も掲載されていて,

現在と比べたり,またその天皇の陵としての「治定」の経緯等の紹介もあり,

心強い味方になり,また,より一層の興味を増していく材料となっている。

 

【神武天皇畝傍山東北陵】

読み方は「じんむてんのううねびやまのうしとらのすみのみささぎ」。

 

写真の記録を見ると,平成28年10月29日,平成29年元旦,3月19日,5月4日と

計4回行っていた。ここには畝傍陵墓管区事務所が併設されているため,

御陵巡りの楽しみの1つである,「御陵印」があるため頻度が多くなっている。

 

はじめて訪れた時は昨年10月。

 

 

少し横から眺めてみると

 

3つの鳥居がある。

 

元旦,初詣の時だと

 

 

正面奥から2つ目の鳥居のちょっと前まで行けることができた。

 

はじめて行った時は,「何となく」という感覚で「御陵印」の存在もまだ知らなかった。

この厳かな,そして静謐な雰囲気がとても好きなのかもしれない。

 

そして,初代天皇ということもあってか,周囲も整備されていて

雰囲気が増している。

 

 

清らかな水が流れる堀があり,とても静か。

同じく初詣で行った橿原神宮は,人に溢れていたけれども,

御陵参拝は,マイナーなのか詣でる人も,ほぼいなかった。

 

伝承では,宮崎の地から「神武東征」を経て,

この橿原の地に「宮」を構えたということになっている。

私も,宮崎で7年暮らしていたこともあり,そういえば宮崎神宮の祭神も

神武天皇であったなぁと後から気が付かされたり,どことなく縁がつながっているのかもと。。。

名前の「武」も被っていたり(ΦωΦ)フフフ…。

 

御陵巡り最初の陵として,またこれからも伺うことになりそうである。

 

【綏靖天皇桃花鳥田丘上陵】

読み方は「すいぜいてんのうつきだのおかのえのみささぎ」。

 

「つきだのおかのえのみささぎ」という,ちょっと読みづらいけれども,

「桃」「花」「鳥」と,優雅な字で彩られネーミングとして好きな陵である。

 

訪問したのは,平成29年元旦と5月4日の2回。

 

 

神武天皇陵のすぐ北側にある。

初代に比べ,二代目ということもあるのか,御陵の看板も少し古めかしく黒ずんでいた。

 

 

また陵域も小さく,すぐ横は道路が走っているためか車の音も。

 

 

外池昇氏の『検証天皇陵』では,「中世以降所在不明」とされていたとのこと。

また,元禄の修陵では,ここが「神武天皇陵」とされていたという経緯もある。

明治11年2月に綏靖天皇陵として治定されたとある。

 

現在のように,色々議論はありつつも,歴代天皇の陵が,きちんとこういう「形」で

聖域化されたのは比較的近年であったことと,2代~しばらくはこうして「所在地が不明であった」という

御陵の扱いが歴史的には,けっこういい加減な所があったというのを知ったのは驚きだった。

 

2代綏靖天皇陵へ行ったことで,初代と比べいささか寂しいところに趣を感じ,

「よし全部行こう,全部行ったら,陵墓参考地も行こう!」と決意を新たに思った御陵でもある。

 

そして宮内庁のホームページを見たら。。。

 

「近畿地方を中心として、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたり、

陵188、墓554のほか、分骨所・火葬塚・灰塚などの陵に準ずるもの42、

髪歯爪塔など68、陵墓参考地46があり、総計898に及んでいます。

箇所数としては同域のものもあるので、460箇所です。

 

・・・ぐは。のんびり行こう。。。

 

いじょ。