「“絶対”に負けられない戦い」とかいう薄っぺらさ | 随書雑感

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のんびりが好きなぴっぷのひとりごと。社会保険関係や労働関係のニュースを取り上げつつ,基本的には日常雑記です。

サッカーのワールドカップが開催されていて,
朝,テレビをつけていると,いろいろ各局が特集を組み,
「応援」といったようなことが見受けられる。

それを目や耳にするたびに,私はどこか冷ややかになってしまい,
今ひとつ,このワールドカップを見ようとか,応援しようとか,そういう気持ちになれない。

今朝はテレビ朝日がかかっていた。
現地ブラジルからの中継として,中山雅史氏がレポートしていた。
 
朝食を食べながら,耳にした言葉に「日本は強いんです!」というのがあり,
「みなさんの応援が通じ・・・」というような,いささか煽動的な内容のコメントがあり,
テロップには「奇跡を信じて!」や「絶対に負けられない戦い」というような
文字が見受けられた。

実際にテレビ朝日のサイトにアクセスしてみると,トップには
こういう画像がある。
 

どうやら,「絶対に負けられない戦いが,そこにはある」というのは,今回のワールドカップの
キャッチコピーらしい。調べてみると,2004年から使用しているとのこと。(参照
 
私自身,サッカーに対しては特段の気持ちもなく,
ブラジルという高温多湿な気候の中で奮戦する選手や監督といった
スタッフに敬意を持ちつつ,おそらく大多数と同じであろう都心での騒ぎを
冷ややかな視線で報道に触れている。
 
そして,これもまた大多数と同じであろう,試合結果や試合のダイジェストなどは目にしている。
 
ここで冒頭の中山氏の「日本は強いんです!」という言葉や上記のキャッチに戻る。
 
日本は本当に強いか?
また,強いということは,どこか弱いところ比べて「強い」わけで,
どこと比べて「強い」のか。どこに対して「強かったのか」。

絶対に負けれらないとは何か?
 
奇跡を信じてとは何か?
 
これらの言葉は,決して客観的ではなくて,感情的な言葉である。
「応援」だから,感情的な言葉が数多行き交うのは良いとしても,
私はどうも,こういう風に応援を煽るマスコミの言葉の薄っぺらさには,
違和感を感じてしまう。
 
世界的に比較してみると「強い」チームになるであろうコロンビアを前にして,
立ち向かう,「サムライ」という図式を描こうとしている意図は感じられる。
(チームカラーも「サムライブルー」にしてますね)
それは,米英中に立ち向かうかつての図式・・・と比べては失礼だろうか。
 
日本は強い=実際は,弱いなんて言ったらいけない(タブー化)
 
絶対に負けられれない=絶対に勝たねばならない。
 
奇跡を信じて→奇跡を信じれば,勝利につながる。
 
奇跡を「神風」と置き換えても良いのかもしれない。
 

この「日本ニュース」はちなみに,終戦1ヶ月前の内容である。

こういった戦力分析や客観性を欠いた,精神論の煽りというのは,
ある意味では,日本というのは紛れも無く一つの歴史が続いているのだなぁと感じる。
「検閲」「報道統制」といったことを差し引いても,かつてに比べ「自由」に放送できる現代においてである。
これは何も73年前の事だけではなく,それ以前の歴史に置いても随所に見受けられるところだ。
古くは元寇の時の論功行賞,江戸末期の攘夷運動も入るだろうか。

日本は強い=負けるなんて言ったらだめ。その通りになってしまうから。

こういう考えは,まさに「至誠天に通ず」,
「願っていれば」,「天」は叶えてくれるというところだろう。
仮に,日本が本当に強いとして,私ごときが「弱い」といったところで
実際は勝利するだろうし,また逆に,「強い」と言っても,そうでなければ,
実際には・・・といった具合で,何ら事実に影響しないことでも,
「ことば」にすると実現してしまうという考えがどこかにあるのだろう。

それが良いとか悪いとかではなく,現代においても,スポーツという代替装置を用いて,
まったく同じような内容が放送されていることが面白い。
そして,「勝てば官軍負ければ賊軍」になっていくのだろうか。
賊軍は誰になるのであろう?特定の選手か?監督か?
「判官びいき」という言葉はあれども,「戦犯」なんて言葉がよく出やすいのも特徴である。
ことさら,吊し上げが好きな特徴も否めない。
 
こういったことは,良いこともあれば悪いこともある。
いたずらに,戦前の空気や体制を批判しているわけではなく,
「こういうものだ」という私自身の感覚である。

通史的に見るならば,この終戦からしばらくは,こういったことをいたずらに批判し,
「一億総懺悔」なんて言葉にもあるように,また,安吾の『堕落論』にもあるように,空気はガラリと変わった。
そして昨今では,その空気に対して,かつては「タブー」とされていたようなことが,
逆の空気が広がっている。今はその過渡期であろう。
繰り返すが,それは良いことでも有り,悪い面もあるということに留意したい。

良いことの1つとしては,「ひとつにまとまりやすい」という点があるのかもしれない。
悪いことの1つとしては,「異質なものは排除」しやすい傾向になることかもしれない。

良いことの面としては,「共感・共有」しやすい土壌にあることだろう。
悪いことの面としては,「共感・共有」できない人は排除しやすいことだろう。
ただ,コミュニティを「守る」という点に限って言えば,この悪い面は「悪」とはいえないのかもしれない。
 
つまりは,「和」,空気を乱すな,ということだ。
そうなると,十七条憲法の一番はじめ「和をもって尊しとなす」にもつながるから,
飛鳥時代から変わりない面があってこれもまた興味深い。歴史はつながっているといえるのだろう。

邪な痴漢がありつつも,ああして大多数が集まって盛り上がることが可能なのであろう。
そしてまた,こういったニュースがニュースになるのも特徴であろう。
 
▽W杯見ないの?とくダネに非難殺到
 
「非国民」なんて言葉も戦前だけではなく,振り返れば,その人の行動・思想でもって
「差別」をするというのも,西洋一般が外見や民族単位で差別した歴史に比べて,
日本独特の感情なのかもしれない。つまりは,「八紘一宇」という理想を掲げつつも,
「八紘一宇」に反する人は「非国民」という考えだ。
 
その時代,その時代の「和」があり,それゆえに古人は,「ヤマト」=「大きい和」=「大和」とし,
やっぱりこの国は日本であり,「大和」なのだろう。

歴史から学ぶとすれば,この国の「国民性」というものは,そういう面を持っているということだ。
特に,市井の人々ではなく,マスコミがことさら煽る傾向にある点だ。実況と解説という役割がありつつも,
ことさら,感情的な解説もどきに反発を覚える人が少なからず存在する。

メディアの少ない時代においては,メディア側というのは,流行も作りやすいし,
何かとこうした国民性の一面を利用して「良い思い」をしたのかもしれない。
 
ただ,如何せん多メディアになり,趣味嗜好の分野が増え,
「サッカー」という競技だけでは,「和」は作れなかったのかもしれない。
そして何よりも,これは「ビジネス」言いかえれば,商業利用の煽りなのだ。
(こうした商業利用の煽りに,私が嫌悪を示すのも,どこかにあったかつての朱子学的名残なのかもしれないが)
 
だから,テレビのコメントやキャッチを見て,私は冷ややかな目をしてしまう。
サッカーは好きでも嫌いでもない。放送側は,もう少し上手く「心」に届く放送はできないものだろうか。
そうすれば,きっとまた違った気持ちで今回のワールドカップを見ることができたのだろう。
「絶対に負けられない戦い」ではなく,個人的には,「負け戦の美学」とも言うべき「判官びいき」的な
放送手法であれば,案外簡単にワールドカップを贔屓にし,サッカーがまた好きになっていたかもしれない。

こういうタイプな私は「強いぞ!強いぞ!絶対勝つぞ!」「撃ちてし止まん」とされるよりも,
「本当は負けるかもしれない,それでも意地と根性でがんばるぞ!」的な方が心情的に,
よし,それなら応援する!がんばれ日本!となっただろうな。。。結局は,お涙頂戴が好きなだけかも。

いじょ。