少し見えてきた | 随書雑感

随書雑感

のんびりが好きなぴっぷのひとりごと。社会保険関係や労働関係のニュースを取り上げつつ,基本的には日常雑記です。

色々と自分なりに自分の気持ちというものを整理してみた。
それは,この7月末の晴れ渡った空を目の隅っこに感じ,
瞑想とまではいかないが,少し呼吸を整えて,自ら省みるというか,
「悪意を持った人間」にどう対処していくべきだろうか,ということだ。
 
今朝方まで,私の心は曇っていた。
妻と一緒に通勤ラッシュの電車に乗り,
ささいな事でいらだちを見せていた。
 
心の格闘とも言うべき,己の心情がもはや,表に出てしまっていたので
何とはなしに,黄色信号が灯っていたのだろう。
 
用を済ませ,帰宅して,振り返る。
もやもやとした思考の中で,少しばかり苦しさを感じるが,
だんだんと光のようなものが見えてくる。
 
一般化してみる。
 
人の心というのは,摩訶不思議なもので,
数多くの「好意」や普通に接してくれる人よりも,
なんと「悪意」の持ったごく一部の心情に揺れ動いてしまうものかということだ。
 
そういう意味では,なんと「弱い」ものであるのか。
強さという面もありつつも,「悪意の感情」に儚く揺れ動かされてしまうものだ。
 
そういう渦中にある時,人は,「好意」すらも遠ざけてしまう傾向になりがちだ。
私もまさに,その渦中にあったのだな,とまず認識する。
 
振り返ってみると,私の人生の中で,悪意を持たれる人間というのは,
一定数存在した。また同時に,多くの人が,ある人は好意的に,ある人は普通に
接してきてくれた。しかし,ほんの一握りの「悪意」を持った人に少なからず
心が翻弄されることが多かったような気がしている。

そういう時,私はどうしてきたか?
 
そしてそれらの悪意は,少なからずこころの健康というものに
「良くない」ものだなと感じる。今朝方のイライラに出るように。
 
何かしらの悪意を感じると,「自分が悪いのかな」と落ち込んだりもすることもある。
しかし,ふと落ち着いて考えてみると,果たして自分が悪いことばかりなのだろうか?
少なからずの人が普通に,あるいは好意的に接してくれる中で,私特有の何かしらの
問題を抱えているのだろうか。

悪意を持たれる人が悪いパターンではなく,悪意を持つ側の人間が
悪いパターンもあるのではなかろうか,と。
 
関西に引っ越してきて,4ヶ月。
ごくごく小さな世界にいることを思い出す。
同時に,この言葉が思い浮かんだ時,私の心は晴れ間を見せてくれた。
 
「現実的に,すべての人に好かれるなんて
無理なはなし」

 
悪意を持った人にばかり関心が行き,
私の心もいつしか,悪意に影響を受けていたのだなと実感する。
少しばかり弱っていた心に,いささかのたくましさが蘇ってきたのを感じている。

私は,私が自覚しうる性格として,「もっとおおらかだったではないか?」と。
いつの間にか,せせこましい,いやらしい,神経質な面がでてきていた。
それは逆に,悪意ある人の影響だったのではないだろうか?と。
 
このままでは,私を信頼し支えてくれる人までも悲しませてしまう。
そういう悪意に取り込まれてしまうと,私もまた悪意を発し周囲に発散してしまう。
 
ここまで,考えてくると,一気に気持ちは楽になる。
そうすると,様々なことも割りかし客観的に見えてくる。
 
悪意ある人は,はてして私だけに悪意をもっていたか?と。
 
いや,不思議なことに,私だけが特別ではないということを。
むしろこれまでの伝聞から察するに,私以外の人たちにも少なからず,
そういう言動や態度を取ってきていたであろうということだ。
 
こう考えると,あまり人のことを悪く言わない方が良いという結論になる。
人のことを悪く言い過ぎると,それはやっぱり,どこかで自分に返ってくるのだ。
 
そういう結果が今につながっているのだろう。
 
そして,私は,こういう悪意のある人をやっぱり関心の外に置くしかない。
反応してもいけない,こういうのは,どれだけ理詰めで説明しようと,
わかりあえないものなのだろう。

その人にどう思われようが,どうでも良いのだ。
それで私の価値が下がることはない。

私のことを,私の価値をちゃんと見ていてくれる人は
幸いにして,隣にいてくれるのだ。
 
いじょ。

少しおのろけになるが,妻の話の中にいくつもすでにヒントはあった。
今もって,なんて聡明な女性を妻として迎えることができたか,という喜びと,
渦中にあっては,やはり善意の話も聞き逃しやすくなりがちになるという
危惧を感じた。またひとつ,成長させてもらった。感謝。