守宮(やもり) | 随書雑感

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のんびりが好きなぴっぷのひとりごと。社会保険関係や労働関係のニュースを取り上げつつ,基本的には日常雑記です。

私達新米夫婦の生活も,8月頭には4ヶ月を迎え
5ヶ月目に入っていく。なんと濃密な4ヶ月であったことか。
喜怒哀楽が凝縮された如く,果汁120%ジュースである。
 
幾度かケンカもしながらも,喜びを分かち合い,共にいることの幸せを
噛み締めているのである。おそらくは,私自身において
独身では経験しえなかったであろう,共に生きることの重厚さ責任といった
ことを感じ,肌身で思春期以降にあまり感じることのできなかった
私自身の「変化」というものを,1日1日感じている。
 
また,私と共に歩んでくれることを決めてくれた妻への感謝も忘れない。
生活の中にある小さなトゲは,柔らかく打ち込まれた楔の如く,
存在感を高めているが,この痛みを緩和したり,トゲを抜いてくれているのは妻だ。
彼女に背負わせているものを,分かち合うために,ありきたりな表現であるが,
不断の努力というものは,これからも欠かせてはいけないだろう。
 
だからといって,私は安易な結婚賛美には走らない。
新婚になり,少し感じることは,夫婦というものは,まさに十人十色であり,
ある意味では,「形」というものはないに等しいのかもしれいからだ。
 
私達夫婦が「うまく」いっているからといって,誰か,例えば同年代の
独身者に,結婚を勧めるということはしないだろう。
突き詰めれば,夫婦の形がそれぞれのペア分にそれぞれの「形」があるように,
生き方,価値観というものも様々だからだ。
 
私は幸いにして,生涯の伴侶という存在を得た。
しかし,それは偶然に偶然の積み重ねで,確率にすればとてつもなく
小さな数値だったのかもしれない。ひょっとすると,私は私の妻に出会わない人生を
歩んでいたのかもしれないからだ。想像すると,恐ろしいことだが,
やはり,私は巡りあえて良かったと感じているし,今の生活において
妻がいないことは,何か自分の中の何かが欠落してしまっているように思うだろう。
 
今までの自分と比べ,私の中で変わったことのひとつは,
「将来への備え」というものへの考え方がある。
 
確かに,未来というものは,予測ができない。
しかし,予測できないからこそ,出来る限りの態勢で望まなくてはならない。
私達夫婦はおそらく,これから先も二人のままであろう。
二人のままだからこそ,自分達の人生を自己完結させなくてならない状況下にある。
 
少なくとも,自分たちの子におんぶにだっこというわけにはいかないのである。
では,どうすれば,私達は私達の人生を全うできるだろうか。
幸いにして,参考にすべきではない例というものを学ぶ機会は多い。

加えて,資格取得のために継続してきた分野の知識が生きてくる機会が多い。
まったくの無知であるよりも,制度が変化するであろうことを踏まえつつも,
自分たちが老いて働けなくなった時,どうなるのであろうか,という目算は立てられる。
そして,おそらくは二人の間において感じることの少ない「年齢差」というものが,
ここに活きてくるであろうということは想像できる。

資格取得が目標ではあるが,「生老病死」すべてに関わってくるだけに,
やっぱりこの分野に興味関心を抱いて正解だったな,と感じるのである。
 
私はどうやら,他の一般的な新婚さんと呼ばれる,まるで華やいでいる世界とは
異なり,どこか妙に現実的な生き方を模索しているような気がする。
妻にはもう少し華やいだものを見せてあげれれば良いのだが…。
これが私なりに感じた結婚における,責任感なのかなぁと。
 
久しぶりにブログを綴って,少しばかりのカタルシスを得ている。
ほんとは,もちっと私達夫婦にのしかかることを愚痴っぽく綴る予定であったのだが,
綴っていて思ったのは,やはりこの「言霊」とやらが蔓延する国に
生まれ生きているためか,悪い言葉を綴るということは,あまり良いことではない。
それは,自分自身の心が歪んで醜くなる。
 
私の好きな作家である庄野潤三の初期の短編『舞踏』の冒頭はこうある。
 
“家庭の危機と言うものは、台所の天窓に へばりついている
守宮(やもり)のようなものだ。 それはいつからと云うことなしに、そこにいる。
その姿は不吉で油断がならない。 しかし、それはあたかも家屋の
調度品の一つで あるかの如くそこにいるので、
つい人々はその存在に 馴れてしまう。 それに、誰だってイヤなことは
見ないでいようとするものだ。”
 
私達夫婦においても,「守宮(やもり)」はやはり“いる”のだ。
 
いじょ。
 

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